21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

佐野眞一『あんぽん』

孫はさらに話を続けて、三十年後の電子メディアには、テレビの情報に直して三万年分、音楽の楽曲に換算すると、五千億曲分に相当する情報量が入ると言った。その上で、紙の本に関して言うならば、三十年後には紙の本は美術工芸品の領域に入っている、とまで言い切った。(第四章「ソフトバンクの書かれざる一章」)

 困ったことに今日は、この本あまり関係なく、自分の思ったことを書くだけなのだが。あらかじめ断っておくとすれば、この本は綿密な取材の上で、孫正義に対して好意的に書かれているし、私も読後、そう感じている。その上で、佐野眞一が孫のことを「うさんくさい」と思う理由が、上に引用したような「情報革命」の考え方である。
 第四章を読むと、著者はこの「情報革命」について、ソ連のようなイメージを持っているようだ。私も何となくそう思っていた。誰も彼もが発言したり、映像や音楽をアップしたりすることによって、また著作権で保護された報酬性を失うことによって、ものをつくる努力と熱意が失われ、文化が衰退するのはおろか、一部の人にとっては生きる気力も失われる社会になる、と。それを言う場合の「既得権」は、もちろん金銭的なもののみならず、広く世界に「声」を発する権利、というものも含むはずだ。
 たしかに情報を集約していく、あるいはその伝達を高速化していく、というテクノロジーの進化については、あまりいいイメージを持ちようがない。おおきな書店で、本に埋もれると幸せを感じると同時に、これだけの本を一生かけても読みつくすことはできまい、という一種の絶望感におそわれることはもとより、情報を集約する媒体をどんどん小さくしていく、という技術の開発と発展の姿には、およそ楽しいイメージが持ちようがない。しかしながら一方で、先だっての「アラブの春」を思い起こせば、より大きな情報へのアクセスが物理的にも制度的にも禁じられている状態に比べれば、だれもが発言できる、という状態の良さは否定することはできないだろう。呑気にアンビバレンツの感覚に埋もれているべきではないのかも知れない。
 そう考えていくと、情報革命にたいして、ソ連イメージを持ち続けるのも、我ながら矮小なのではないか、と思う。否、ソ連だからだめ、ではなくて、一体どんなソ連になるのかを考察すべきなのだろう。ありとあらゆる情報がフリーに近くなれば、必然的に大きな「個」というものが存在しづらくなると思う。それは、次から次へと過去の矛盾やスキャンダルを暴かれて、失脚していく政界のトップのみならず、言論の面においても、作家やジャーナリストの優位性が失われていく、ということだ。必然的にデマゴーグ(つまりは、スキャンダルも矛盾もものともしない厚顔無恥、情報を精査するのではなく情報の流れそのものを操ることに優位性を持つもの)が生じやすくなる状態と思うが、そのような存在を生み出さないためにも、われわれは旧態依然をなつかしむのではなく、小さな「個」としてどのように存在していくか、それを考える時期に来ているように思う。

(『あんぽん 孫正義伝』 小学館 2012年)