21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.G.バラード『人生の奇跡』 第十四章「決定的出会い」

モダニズムの中心には「自己」が横たわっていたが、今そこには強力なライバル、日常世界があった。それは「自己」と同じように心理的構築物で、同じように謎に満ち、ときに精神病質の衝動をしめす。この禍々しき領域、気が向けば次のアウシュヴィッツ、次のヒロシマへと日帰り旅行に出かけるやもしれぬ消費社会こそ、サイエンス・フィクションが探求しているものだった。(143ページ)

 バラードは20世紀について書いていて、「訳者あとがき」を援用するなら21世紀を予言しているのかも知れないけれど、19世紀というものをどう考えていたのか、についても少し気になる。上記の引用部分であれば、「モダニズム」という言葉がそれにあたるだろうし、これと60パーセントくらいの割合で同内容を述べている、『クラッシュ』の序文では、確実に19世紀、という言葉を使っている。

あからさまな回顧的傾向と、経験の主観性についての強迫観念を別にすれば、十九世紀心理の真の関心事は罪と疎外の合理化である。その要素は内省、ペシミズム、洗練であった。(『クラッシュ』序文)

 この「十九世紀」というのはあくまで、現実を見ようとしない、「古くさい」純文学への悪口なのだろうけれども、「罪と疎外の合理化」という表現は、言い得て妙であるように感じる。むろん、近代文学の唯一無二の主題としての「自己」と、虚構化しつつある現実をいちはやく感じとり、そこからの脱却を図るバラード、という単純化された構図はあるが、そのなかで悪者の役を背負わされる「モダニズム」なり、「十九世紀」なりへの一定の評価として、これはとてもマトモな認識ではないのか。
 というかまったく自伝から離れて、『クラッシュ』の序文がネタになってしまっているが、上記の引用においても、「自己」を日常世界の「ライバル」として同等に置いていることが注目される。つまり、古典的世界観においては、「現在過去未来」が、どの地点においても位置関係として成立するため(、よく言われるけど、だから古典なのだ)、自己は自己として深遠に降りていくしかないが、20世紀においては、「現在」(あるいは日常世界)があまりに強く、未来をそのなかに収容してしまえるがために、自己が降りていくべき方向が変わっている、ということだろう。