21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

佐藤亜紀『小説のストラテジー』 8「ディエーゲーシス/ミメーシス」

ところで、実際彼が聴いたのは何だったのでしょう? 例のジャジャジャジャーン、がウィーン体制の政治的閉塞にぶち当たったベートーベンの苦悩に聴こえるとすれば、それは空耳です。(1「快楽の装置」)

 伊藤計劃のブログに「我々は手遅れの季節に住んでいる」という一節があって、つまり(私は見たことないけど)「24」とかでより大きな犠牲を防ぐために、かなり多くの人がフィクションの中で死ぬことが許容されている時代のことが書かれていて、それが心に残っているのだが、この評論を読んだときになぜかそれが思い出された。つまり小説を読み、書くときにそこに「真」を見出そうとすることはムダだ、と言わないと論自体が成り立たない、という意味において。
 ただし、そのこと自体に異議をとなえたいのではない。むろん、『悪霊』を読むときキリーロフのセリフに傍線を引いて、そこから思想を見出そうというのは、現代においてイタいことこの上ないのであって、『悪霊』がメロドラマであるというのも紛うことなき事実なのだ。このことは特に新しい見方でもなくて、すくなくとも江川卓の著作はその前提に立っているし、ひょっとすると米川正夫からそうであったかもしれない。(このあいだのドストエフスキー・ブームは一切乗らなかったので、どうだったか分からないが)。つまりここで佐藤亜紀が言っていることは、現代の小説読みにおいて「あまりにも真っ当」なのだ。しかし一方でこの本を読むとき、埴谷雄高のミもフタもない断言に満ちたドストエフスキー論を読むときの、あの興奮はない。
 これはバフチンの言う「最後の言葉」を希求するか否か、ということにあるのだと思う。むろんバフチンの結論は、最後の言葉は見出されない、ということにあり、それが小説というメディアの魅力ではあるのだけれど。ただし、バフチンの言う多声とか対話というのは、あくまでモノローグを意図して発された言葉が、発話者の意図に反して分裂してしまうことにあるのではないか。私がこの本や佐藤亜紀の小説を読んで、なんだか満足しきれないのは、この「最後の言葉」が最初から諦められていることにあると思う。(一方で、それでも大上段に構えて書かれたが中途半端な現代の日本の小説よりはずっと面白い、という困った事実はある。たぶんこの人の方が、作品に一定の意味を持たせようとする人よりも、余程ミもフタもない痛快な断言をすることがあるからだ。上の引用みたいに)。
 さて、ここまでは実は前置きで、さらっと書くつもりでやたら長くなってしまったが、この本で圧倒的におもしろいのはこの8章目である。つまり7章までは上に書いたように、「わりとふつう」で、とくに7章とかバフチンの言ってることを単純化して書いただけなのだが、8章において「語り」の問題と「記述/描写」が密接な関連性を持って語られる場面はスリリングだ。バフチンの言うモノローグ/ポリフォニーは、やはりどこか思想の問題に特化してしまっているのだが、ここでの論は語りにおける声の入り方によって、いかに空間と時間が処理されるかを見事に分析している。

ディエーゲーシスとミメーシスは、それぞれ、対象の異なる二つのあり方を視野に収めています。永遠性の直観と現実の感覚的認識、平面的な非-人間性と立体的な人間性であり、フィクションの記述においては二つの可能性を留保しつつ、必要に応じて一方が前傾に現れ、他方が後方に退くのです(169ページ)

(『小説のストラテジー』 青土社