21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

C.ブロンテ『ジェイン・エア』 23

ヘレンは私の指を温めるためにゆっくりさすりながら、
「もし世界じゅうの人間があなたを憎んであなたのように悪い人間はいないと思っても、あなたの良心があなたがすることを認めて、あなたは何もとがめられるようなことはしていないとみとめるなら、あなたは一人ぼっちであることにはならないでしょう」と言った。
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 けっこうイギリスの文芸映画が好きなのだが、ステレオタイプとして印象に残る画のひとつに、田舎のお屋敷が正面からの全体図としてフレームにおさめられているものがある。観返してはいないけれど、ここ最近のものでは「プライドと偏見」にも「つぐない」にも確実にあった。おぼろげな記憶をたどれば、エルキュール・ポアロのドラマでもよく観る光景のような気がする。
 ただ、こういった撮り方というのはとてもイギリス的なのではないだろうか? あまりハリウッド映画を観ないけれど、なんとなく勝手なイメージとしては、ビルの上から街を見下ろす、あるいは街から摩天楼を見上げる、というのが典型的な視点の在り方のように思える。そもそもビルのような大きなもの、あるいは日本の寺院のように広がりがあるものを表現するには、一部分を切り取ったほうが効果的なのかも知れない。映画のことは知らないけれど。
 さて、何故に正面からの全体図なのだろう?と考えるとき、思い返せば上に挙げたふたつの映画のどちらでも、玄関先で事件が起こる、というエピソードがあった。描かれているのはともに地方貴族の家庭であるから、屋敷の敷地内、さらには玄関先というのは、ある程度独立した空間ではあるのだけれど、玄関先というのはプライベートでありながら、つねに他人から覗視される可能性のある場所として存在している。つまりは映画に挿入される屋敷全体の正面図とは、覗視者の視点ではないのか? そういえば二つの映画はともに覗き見もひとつのテーマであった。
 N=2だとか3だとかのいいかげんな話ばかり続けているけれど、重要な事件がこういう場所で起こる、玄関先、あるいは庭先の詩学というものがイギリス文学にはあると思う。逆に、たとえばドストエフスキーの作品では重要な事件が起こるとき、その空間は密室化しており(ラスコーリニコフの殺人も、スヴィドリガイロフとドゥーニャの対決も、鍵をかけてから起こる)、予想されない目撃者が現れない、という意味では、「談話室の詩学」と言ってもいい。そして、前にも書いたけれどカフカはもっと俯瞰的な立体として場面を描いている。
 むろん、さっき敢えてポアロを引き合いに出したように、シャーロック・ホームズの世界はまったく違うし、そもそも『一九八四年』について、まったく逆のことをこのあいだ私が書いたばかりだから、これがイギリス文学の視点だというのは大嘘もいいところだが。ただ、ここでやっと登場するジェイン・エアに関しては、彼女にまつわる大事件はつねに、この「玄関先の詩学」にしたがって起こると言える気がする。彼女が幼少期をすごしたリード家を除けば、室内で事件が起こるときも、なぜかドアは開いており、突然の来訪者、あるいはこの23章の告白の場面のように、自然がかれらに一撃を与えるのだ。

私もとそれを聞いて私は思って、そう言うところだったが、そのとき私が見ていた雲から青白い光が走り、何かがはじけ、それから裂けるような音がしたのに続いてすぐそばで雷が鳴り響き、私は眩しさに急いで顔をロチェスターさんの肩にうずめた。(359ページ)

(『ジェイン・エア』 吉田健一訳 集英社文庫