21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

C.ブロンテ『ジェイン・エア』 26

私は果樹園の塀に沿って行ってその角を曲がった。ちょうどそこに牧場に向かって開いている二本の石の柱がそれぞれ石の玉をいただいている門があって、そこから私はそっと屋敷の正面を覗くことができた。私はどこか寝室のブラインドがもうあがっているかもしれないので気をつけて頭をもたげた。私がいる所から胸壁も窓の列もすべて見えるのだった。(36)

 まあ、しかし、基本、ジェイン・エアって嫌な女ですよね。曲がりなりにも自分を育てた家族は不幸になってラッキー、みたいな感じだし、入った学校にも不満、不満、不満。家庭教師になって比較的しあわせになってからも、その一家が退屈だとか、教えているフランス人の娘はあまり賢くない、という始末。極めつけはこの結婚式のシーンですが、気の狂った奥さんを監禁して別の女(=ジェイン)と結婚しようとしているロチェスターさんは、このあいだブラジルで捕まった奥さんを地下室に15年監禁した男と同じレベルなのではないのかしら……
 そんな19世紀の小説を現代の感性でうだうだ言うのはこの辺にしておいて、この話のポイントは、「待つこと」ではないかと思うのです。妹のエミリが書いた、『嵐が丘』には待っているシーンがそんなにないのだけれど、ジェインにしてもロチェスターさんにしても、「信心」(Saint John)リヴァースにしても、基本は自分が求める人を「待っていた」というスタンスですよね。また、それで好きになる人が見つかったら、度重なる「焦らし」プレイが炸裂。最終章のジェインが焦らす側に立つシーンは、それなりにほほえましくもあるのですが、嫁を監禁しているくせにジェインを嫉妬させて焦らすロチェスターさんの草食ぶりには空恐ろしいものがあります。結局わしは金持っとるから、このイマイチ器量の良くない家庭教師はオチますぜ、みたいな。
 ……さてさて、やはり敬体で書くとしまらないので、最終段落だけ普段の調子で書くが、ジェインの人生と言うのは、不満・爆発・期待を繰り返すようにして描かれている。つまり彼女は、「ここではないどこか=ユートピア」を期待して旅立つ、というより、現状への不満を爆発させたその先で、はじめて期待を抱くように書かれているのだ。つまり、前回の記事(これもかなりの牽強付会ではあったと反省しているが)に書いたような、「玄関先・庭先の詩学」は、彼女が飛び出したその場所で、あるいは次の物語がはじまるその先端で起こっている。ある種、彼女は期待、あるいは希望というものを内在させているのではなくて(言い換えれば、とりたててやりたいことがあるわけではなくて)、からっぽで飛び出していった先に希望が見えてくる、という、そういう自分勝手な詩学がこの物語を面白くしているのかも知れない。

「あなたは私のことを妖精とおっしゃいますが、それよりもあなたがお伽噺の怪物に似ていらっしゃるんじゃないでしょうか」
「ひどい顔をしているのか、ジェイン」
「昔からきれいな顔というものじゃありませんでした」
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