21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

ダイジェスト版

 みなさま、明けましておめでとうございます。大変、ご無沙汰いたしました。休んでいるあいだ(なにも書かないでいるあいだ)、カウンターが好景気に回りつづけており、なんだか申し訳ない感じです。
 この間、仕事が忙しかった、というよりは、なんだか発信する気力が失せていた部分がありまして、どうしたもんかな、と思います。それでもやはり、本を読んで、何か書いていないと元気が出ない体質は変わらないと思うので、もうすこし気力が回復したら、「古井由吉フェア」と「イギリス文学フェア」もおさまりがつく部分までは書く所存であります。引き続き読んでくださっている数少ない読者の皆さんは、だから見捨てないでください。
 さて、この間、どんな本を読んでいたのかと言いますと、イギリス文学ではシェイクスピア『リチャード三世』と『ジュリアス・シーザー』、そしてマキューアンの『アムステルダム』。シェイクスピアの歴史物は、やはり「歴史は記述されるもの」という認識にうたれる部分が大きいです。たとえば、『ジュリアス・シーザー』ではこのような台詞。

「みんな膝まずいて手を浸せ。今よりのち、いつの世にも、われらの手になるこの崇高な場面は、しばしば繰り返し演じられることだろう、いまだ生まれざる国々において、いまだ語られぬ言葉によって!」福田恒存訳)

これはシェイクスピアの時代から、英語でローマの歴史を振り返ったものですから、まあ、ある種の「楽屋ネタ」(?)と言えなくもないんですけど、やっぱり時代というのは変わるもので、その語られ方によってはさらに如何様にも変質しうる、という感覚なくしては書けない言葉ですよね。たとえば現代に置きかえてみれば、日本の落日が、ロシア語でおもしろおかしく語られる日も来るのかも知れない、と思っていなければ書けない言葉だと思うのです。
 マキューアンの『アムステルダム』も面白かったので、これについても項を設けて書かねば、と思っているのですが、基本的に、この人って「スベリ芸」ですよね。「スベリ芸」というのは、21世紀文学の一つの潮流だと思っています。たとえば前世紀だと、ミラン・クンデラという、意識してかしないでかの、すごい「ダダスベリ芸人」がいたんですが、21世紀では、マキューアンとかカズオ・イシグロとかが、もうすこしスマートにスベってみせている、というのが私の認識です。たとえば『贖罪』とか、『わたしを離さないで』なんて、スベリ芸の大作だと思っているので、そういうことについてはまた書きます。
 それで、ここのところいちばん面白かったのは、文庫化された伊藤計劃『ハーモニー』です。これに関しては必ず項を設けて書きますが、いま、『カラマーゾフの兄弟』の続編を書くとしたら、こういう風に書くしかないもの、として受け止めました。そんな流れで円城塔Self-Reference ENGINE』も読んだわけですが、こちらはノリ切るのにすこし時間がかかるものの、これもすごい小説だと思いました。簡単に言えば、SFづいています。
 あとは、日本文化を紹介するネタになるかな、と思って、岡倉覚三『茶の本』を読みましたが、ちょっとこちらはノリ切れませんでした。英語版を日本で購入してきたので、それを読めば逆にもうすこし分かるのかも知れません。
 それ以外では、塩野七生さんのエッセイ集『日本人へ 国家と歴史篇』が面白かったのですが、なに書いてあったか忘れてしまったし、本を日本に置いてきてしまいました。そんな感じですかね。ところで、今回、全文を敬体で書いてみているのですが、意外に敬体ってエラそうにみえるのでしんどくなっている所存です。
 さて、新刊本をまったく読めていないので、気は引けるものの、2010年を私なりに総決算したいと思います。2010年に出逢った、あるいは再会した本の中で、記憶に残っているのは次のような本です。

伊藤計劃虐殺器官
古井由吉『辻』『人生の色気』
エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(鴻巣友季子訳)
ジョージ・オーウェル『一九八四年』(高橋和久訳)
ウィリアム・シェイクスピア『リチャード三世』(松岡和子訳)
一色伸幸『うつから帰って参りました』
佐藤優『自壊する帝国』
鴻巣友季子『孕むことば』
ミラン・クンデラ『無知』

こうやって読んだ本を振り返ると、やはり世間と同じく、エネルギー不足気味だったのではないかな、と反省します。もちろんここに挙げた本は、すばらしい本ばかりなのですが、なんというか自分の関心から大きく踏み出す、ということをしなかったな、という反省があります。ある程度、文章で書いたことには義務が生じると思うので、言っておきます。今年はともかくたくさん読みます。