21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

古井由吉『人生の色気』 第四章「七分の真面目、三分の気まま」

とにかく、忙し過ぎるんです。自分で考える時間や癖を与えられることがありません。これまでの社会では、まず、何かを選択する前に、自分で考えるというプロセスがあったんです。しかし、いまでは、商品一つ買うのにも、多様なように見えて、選択の幅がほとんどありません。大量生産されて大量広告されたものばかり並んでいるから、みんな似たようなものです。そんなことが重なって、自分で自分のいきさつを考えてみたり自分のこれまでの来歴をストーリーにしてみる、という習慣が薄れて、人生の出来事はすべて、不倫なら不倫、家庭内暴力なら家庭内暴力、いじめならいじめという観念の中に封じられています。(第五章「粘って、勝つ」)

 最近思うことは、現代という時代が、イデオロギーが崩壊したのは勿論のこととして、その後にもてはやされたアイデンティティというやつも崩壊して、他のなにかになっているのかなあ、ということ。まあ、これをInformationとか言ってみれば、「3つのI」できれいなのだけれど、IdeologyとIdentityがかりそめにも人間の支えになっていたのに比べてみれば、情報はむしろ人間を揺らがせているので、性質が違う。いちおう、商品の販売を生業としている身としてみれば、情報に個人が埋もれてしまっている中で、「これからはストーリーの時代です」とかいうマーケティング的妄想を振りかざしてみてもいいかも知れない。つまりは、画一を異化するものとして。
 そんな大上段の構えはさておいて、自分自身のことを考えれば、古井由吉という作家を、あらためて読み返してみるべきだと思えてきた。この『人生の色気』という本を読むと、現代を生きるうえでの先輩の知恵をもらえる他に、古井文学を考えるヒントが3つくらい見つかると思う。ひとつには、場所の力ということ。ふたつめには、女性の顔、とくに眉について。みっつめには、「俗に走らないようにしながら物語性を出すとすれば、小説ですらない形式の散文から物語性が浮き上がってくる方法しか考えられません」というときの、物語について。
 なんとなく、書き出してみると、ふつうの文学論と何が違うのか、という気にもなるし、実際に、古井由吉自身が下のように言っているのに、一人の作品を分析的に読むことがいいのかどうか分からないけれど、しばらく、「古井由吉千本ノック」、行ってみたいと思います。

自分に堅苦しくなって、文学書でも、あれ読もう、これ読もうと日程を組んでみても、面白くも可笑しくもありません。読書でも飽きることが大事です。しばらく放り出しておくうちに、作品が心の中で膨らんでゆくものなのです。どこかで、日程に縛られない自分を確保しておくべきです。仕事の場でも、表面から少し退いて、すぐ役立たなくても、企画を立ててみたり、先につながる何かをやっておくのが大事です。(131ページ)