21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

ダイジェスト版

私はいわば外側の喧騒につりあうだけの喧騒をうちに宿していたのである。古井由吉「先導獣の話」)

 このブログをはじめたころの生活はといえば、片道1時間の通勤時間がある東京のサラリーマン生活で、連続して地下鉄に乗っている時間が30分はあるから、本の1章か2章を読んで感想を記す、という形式にまことにふさわしいものであったが、現在の生活はといえば、一行も読む時間がないときがあるかと思えば、出張の移動時間や休日で、読むときには一冊まとめて読んでしまえる、という風なので、なんだかやりにくい。とはいえ、折角はじめた形式なので、このダイジェスト版でリズムを取りつつ、少しでも書き残していこう。
 さて、8月末からこのかた、ここに記したもの以外では、次のようなものを読んでいた。
 まず、ブルガーコフ巨匠とマルガリータ』(水野忠夫訳、『集英社ギャラリー世界の文学15』所収)を読了。この小説はモスクワの地平の拡がりがひとつのミソとなるので、読む上で私は最適な環境にいる、と言える。そして、ゆっくり何回かに分けて感想文を書きたいなあ、と思いながら書けずにいる。同じく読んだ、鴻巣友季子『翻訳のココロ』(ポプラ文庫)の中に、「シェイクスピアにおけるT.S.エリオットの影響」という話が出てきて、これは、現代の読者はシェイクスピア以前にエリオットを読んでいて、シェイクスピアを読むときにその影響を受けている、ということなのだけれど(ただ、私はエリオットを読んだことはないが)、このブルガーコフの巨編を読んでいると、どうしても「マンガみたいだな」と思ってしまう。たとえばあたかも人間のように振舞う猫がでてくるけれど、私が子供のころに見ていたアニメでは、ジョバンニとカムパネルラからして猫だったし、シャーロック・ホームズが犬だったりしたのだ。こういう動物の擬人化の歴史を、『かってにシロクマ』にいたるまで探ると面白いかもしれない。
 心が荒んだままなので(?)、ホラー小説もどうしても手にとってしまう。岩井志麻子ぼっけえ、きょうてえ』(角川ホラー文庫)はかなりの名作。ただし、岡山弁で「すごく、怖い」という意味らしい表題作にはそれほど感心せず、村役場でコレラを密告する「密告函」の調査を押し付けられた男の話や、漁師村での姦通と「あまぞわい」という浅瀬にまつわる恐怖話があいまう作品のほうに感心した。
 『虐殺器官』の流れでは、20世紀スパイ小説の古典であるジョン・ル・カレ『寒い国から帰ってきたスパイ』(宇野利泰訳、早川文庫NV)を読む。内容についてはまた別途書きたいのだが、訳者解説で、作者ル・カレの「僕がこの小説で、西洋自由主義国に示したかったもっとも重要で唯一のものは、個人は思想よりも大切だという考え方です」という言葉が印象に残った。この考え方は、すくなくともその後の20世紀エンターテイメント小説の世界観を領してきた、と言えるだろうが、最近ひょっとすると揺らいでいるのかも知れない。
 古井由吉のひとり語りの体をとる、『人生の色気』(新潮社)も読了。この作家が経済のことを語り、「作家が経済のことを書けないのが問題」というのも新鮮だが、下記に引用するような部分のセンスの鋭さにも心惹かれる。そんなわけで、自選短編集『木犀の日』(講談社文芸文庫)も読み始めた。

東(浩紀)さんのテーマは、いわゆる「オタク」文化と呼ばれている領域です。これまではあまり文化的だと認知されていなかったジャンルだけれども、「表象」と題すれば立派に学問の対象になります。ただ、学問の方法で扱えば、いわゆる「オタク」の仲間だけで通用するような、ちょっと気恥ずかしいディテールの違いはすべて失われて、他のジャンルと同じような、フラットな議論になってしまうんです。

 その他、『古典落語 志ん生集』(ちくま文庫)、鎌田慧自動車絶望工場』(講談社文庫)、鹿島茂『パリ世紀末パノラマ館』(中公文庫)をすこしずつ平行読み。我ながら雑食だな。