21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

猪木武徳『戦後世界経済史』 第一章第2節

つまり民主国家にとって重要なのは、国民が倫理的に善い選択を行い得るためには、まず十分な知識と情報が必要だということである。いい換えれば、難問を適切に選択し処理するための倫理(モラル)を確かなものにするには、知性と情報が不可欠なのである。(「むすびにかえて」)

 冒頭に挙げたのは本書の結びの部分、370ページにわたる経済史の結論に近い部分であり、知性と教育というものに対する切実な信頼の声でもあるが、この部分を読みながら私はもう少しあほなことを思い出していて、それは先日ソチにロシア人社員たちと行ったときの話である。周知のとおりソチは2014年の冬季オリンピックが開催される都市で、黒海に面しているため、夏場は海水浴を楽しめるリゾート地として人気があり、この旅は、「全体会議」と銘打っているものの、仕事は半分くらいで半分は遊びであった。そんなわけで、夜中の2時くらいまでホテルのバーで呑んでいたのだが、とつぜん社員が、「いい感じで酔っ払ってきたし、そろそろ泳ごうぜ!」(私の心の中でも「!」)と言い出したのである。彼はビジネスの知識が深く、ロシアに横行する賄賂や裏金の問題に対しても真剣に警鐘をならしている人物であったため、私の驚きはより深かった。準備運動もせずプールに飛び込む彼を見て私は思った。ロシアという国は、国民のモラルが欠如しているのではない、小学校教育が足りないのだと……
 さて、本書の第一章は一冊全体のコンセプトを語る部分だと言っていいと思うのだが、その第2節が、「不足と過剰の六〇年」と題されていることは注目に値する。この「不足と過剰」というキーワードを用いて、戦中・戦後の食糧危機から、豊かさ、自動車の輸出、資源、人口など、世界的な経済指標のアンバランスをこの節では論じているが、その中に、「公共精神の過剰から不足へ」という部分がある。つまり、国民が「教育勅語」を範とし、野中兼山、青木昆陽を称揚した極端な「公」の時代から、「利己主義が個の尊重と混同されかねないような世論」へと、戦後六〇年間で人びとの意識が変遷したのではないか、という問いかけである。本書のサブタイトルが、「自由と平等の視点から」とされているとおり、著者は一貫して、このふたつの概念のバランスをとることが以下に重要であり、いかに難しいかを語っている。つまり、この部分を読む限り、すくなくとも現代日本は「個」の自由に振れすぎだろう、とする本書の基本通念が感じられる。
 その意識にはまったく同感なのだが、一方で本書では、利己主義化した「個」がまた情報の中に埋没している、という考察がかけているようにも感じられる。「個」の欲望を駆り立てる情報が氾濫していると同時に、過剰な欲望を持ってはいけない、という情報も同時に過剰である、という矛盾した状況が現代である。(要は「サブプライムローンはあかんかった」、とみんな言っているけれど、何があかんかったのか話が難しくてよく分からん、みたいな)。むろん、ゆとり教育で情報に鈍感な人間を育てたところで、それは解決するわけではないのだが。

木村によると、この無計画性は、金日成の「現場指導」と呼ばれる経済運営に典型的に現れているという。それは、金日成が精力的に全国の企業所、工場、農場、建設現場を回り、個別の経営問題やさまざまな技術的問題について部下に直接指示を与え、彼自身が撤回しない限り絶対に遵守せねばならないさまざまな命令から成り立っていた。「肥料をどう混ぜるか」、「どの機械を使うべきか」などから始まり、「労働者用の風呂を作れ」、「一定期間内に特別増産せよ」といったきわめて恣意的な命令である。木村はこれを「無計画指令経済」と呼んでいる。(第五章第3節「東アジアの奇跡」)