21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

平野啓一郎『葬送』 第一部・七

絵筆を執って暫くの間は、時々息を吐き掛けて、悴む指先をほぐさねばならなかった。しかし、じきにそれも忘れてしまって、腕を動かしていること自体を意識しなくなっていた。集中すると何時もそうであるように、手と目は直結し、からだの一部分であることを止めていた。器官と器官とを隔てる距離がなくなって、各々が肉に繋がる必要なく連続して一つになっていた。身体のそれぞれの場所が、一つの器官でありながら同時に全身であった。全身でありながら、猶生々とした個々の器官であった。掌中の絵筆は、道具としての違和感を喪失していた。何かを持っているということが意識に上らなかった。それはいわば、一つの鍵であった。彼に対して差し込まれ、外界に対しても差し込まれた双頭の鍵であった。(261ページ)

 小説において、描写というものをどれくらい重んじるかは、作家によって個人差があるだろうけれど、ただ言葉が視覚の奴隷と化してしまえば、そこに小説の存在意義はないわけで、たとえば風景や動きについて描写していても、見ているものを技巧を凝らしながら言葉にするだけであれば映画を見たほうがいいし、あまつさえそこに「美しい」とかそういう感想・感覚を加えてしまえば、それはブログにすぎない。(これはブログだが)。目でありながら、同時に手であり耳であり鼻であり舌であり性器であったりすることを求められつつも、そのどれになるのもうざったい、くらいの地点が小説なのだと思う。
 さて冒頭に挙げたのは、ドラクロワが天井画を描いている場面だ。そんなモンが描写できてしまうあたり、やはり小説は「横暴」だと言わざるを得ないが、この一節はもっと横暴で、ドラクロワの絵筆によって、かれの絵画と自然とが一体化してしまう、という場面を描いている。ただ、いまいち説得力はない。それはただ単に「描写力」が足りないからかも知れないし、肉体の感覚が失われることがミソなのに、この場面に至るまで登場人物は「疲れた」以外の感覚を一切感じていないからかも知れない。
 問題はそんなことより、四分の一読み進めたこの小説がいったい何を目指しているのか分からないところにある。要はいまのところ面白くないのだ。こんなのって、ひどい書き方とは思うけれど。

『葬送』 新潮文庫