21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.オースティン『高慢と偏見』 61

「そりゃだめよ」と、エリザベスが言った。「二人ともいい人にしようったって、そりゃ無理よ。どっちかにきめなくちゃ。一人だけで満足しなければだめよ。二人の間には、ちょうどあわせていい人が一人できるくらいの価値の量しかないのよ。」(40)

 美人姉妹とは、はたして何人が適当なのであろう? 古今東西の創作の世界において、男性の3人以上の兄弟が主役を演じているのは、ちょっと考えたところでは『カラマーゾフの兄弟』しか思い浮かばないが(あと「だんご三兄弟」)、「女ばかりの兄弟(姉妹)」というのは、なんだか創作欲をかり立てるらしく、三人姉妹はおろか、四人姉妹、五人姉妹がざらにいる。(なぜか六人になると男の子になってしまうが・・・・・・)
 まず、三人姉妹。そのものずばりのチェーホフの戯曲から、「宋家の三姉妹」そして、「キャッツアイ」の来生家と「らんま1/2」の天道家も三姉妹であるし、現代社会においても一定のリアリティがあるので、創作のテーマとしては使いやすいのだろう。また、性格の書き分けもクリアにできる、きわめて便利なツールと言える。
 四人姉妹になると、何と言ってもまず『若草物語』。そして、谷崎潤一郎細雪』などが続くだろう(あと「ポッキー四姉妹」)。四人になると、中に「派閥」がつくれるので、これまた便利っちゃ便利である。
 しかるに、五人姉妹。思い当たるのはこの『高慢と偏見』と、『ヴァージン・スーサイズ』の2作だけだ。確率論的にはなかなか5人も続けて女の子は生まれないだろうし、リアリティは著しく失せる。また、性格の書き分けの上でも、最初に死ぬセシリアと、実質上のヒロインのラックス以外はだれが誰だか分からない『ヴァージン・スーサイズ』はもとより、『高慢と偏見』においても、やさしい長姉のジェーン、主人公のリジー、オタク系のメアリ、奔放な末娘リディアにまぎれて、四女キッティのキャラはいまいち立っていない。
 『ヴァージン・スーサイズ』においては、「物量」としての五人姉妹が必要だった、という不謹慎な言い方ができるかも知れない。美しい五人姉妹が自ら命を絶つ、というプロットが神秘らしさを生むのであり、これが六人だとリアリティに欠け、四人だと現実にもあり得てしまいそうで怖ろしいからだ。この「物量」という考え方が、『高慢と偏見』にも適用できるかも知れない。若い男が田舎町にあらわれると、そわそわして沸き立つ娘たちを視覚的に見せるには、四人だとあまりにそれぞれの個性が見えてしまい、六人だと単なるギャル(?)の集団になってしまうのかも。
 しかしここはもっと俗っぽい見解を取りたい。ジェーンとリジーは幸せな結婚をし、リディアは駆け落ちしてメロドラマの主人公となる中で、オタクのメアリが一人残されたのでは、あまりに可哀相だからキッティがいるのではないか。また、「リディア閥」に属していた彼女は、物語の最後でおしとやかな娘に変わっていくという。と、すれば、超然としたベネット氏と、趣味に生きるメアリの中に一人残されるおせっかいなベネット夫人に対して、もう一人片付けなければいけない「ベネット嬢」を残したのが、作者の登場人物に対する思いやりだったのかも、と。

「お前は感心な娘だ、」と、彼は答えた、「わたしは、お前がしあわせな家庭をもつと思うと、うれしくてしようがないんだ。お前たちはきっとうまくやってゆくにちがいない。気性もけっしてちがってはいない。どちらも、相手の言うなりになるから、何ひとつきまることはあるまい。どちらも、お人好しだから、召使の一人一人にだまされるだろう。たいそう気まえがよくていらっしゃるから、いつも支出超過ってことになるだろう」(55)