21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.オースティン『高慢と偏見』 34

わたしはロマンチックな女じゃないわ。昔からそうなのよ。わたしはただ楽しい家庭がほしいんです。そしてコリンズさんの性格や親類関係や身分を考えると、あの人と結婚すれば、世間の人たちが結婚生活にはいって、自慢するくらいのしあわせはきっとえられると思ってるのよ(23)

 『高慢と偏見』は1813年の作品なので、『嵐が丘』より35年もむかし、今から考えれば、ほとんど200年前の作品になるのだけれど、ある意味恋愛小説としては、『嵐が丘』やその他の19世紀後半の小説よりも現代的に思える。なにしろこれは「婚活」の物語だ。
 かれらを計算高い、とは言うまい。リジーやダーシー卿、そしてコリンズの妻となるシャーロットは、おそらく『嵐が丘』のキャサリンヒースクリフよりも真剣に生きている。ただ、この物語において語られているのは、「恋愛」ではなく「結婚」だということだけは間違いない。かれらが自分に問うのは、自分を好きだという相手の「感情」ではなく、はたして信頼にたる人物かという、そのひとの「人格」の一点に尽きる。(たしかにその点では、コリンズ氏は空気読めないけれど、自分の妻を不幸にしたりはしない「人格者」である)。
 さて34章はダーシー卿がリジー(エリザベス)に告白する場面だけれど、盛り上がりには欠ける。ただし、ここが全体の「折り返し地点」となって、ダーシー卿がリジーに対する「婚活」をし、それをリジーがつきとめていく、という後半戦に突入する。なんだかテレビドラマを見ているみたいなのである。

実際、すべての愛も無益になった今ほど、彼女は彼を愛せると本気で考えたことはなかったのであった。(46)