21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.オースティン『高慢と偏見』 19

そんなふうに、詩に負けて恋をすてた人は、今までにずいぶんたくさんいたようですね。恋を忘れるためには詩がやくにたつということを、はじめて発見した人は誰なんでしょう?」(9)

 これは、私の偏見と言っていただいて良いが、英文学というのは他言語の文学と独自の発展を遂げている。たとえば、私の学生時代の専攻であったロシア文学や、好んで読んでいたドイツ文学が、「何を書くか」に焦点をあてているのに対し、英文学は、「何を見せるか」に焦点をあてているのである。
 これは、前にも書いた気がするが、英文学はキャラクター文学の先駆者である。アーサー王ハムレットロビンソン・クルーソーシャーロック・ホームズと、ともかく名キャラクターは枚挙に暇がない。また、先だって『嵐が丘』の回で挙げたように、名場面、名ゼリフについても、英文学は一日の長があるように思える。むろん、英語という言語の汎用性や、それこそ「大英帝国」であった歴史的な優位性もあるのだろうが、現在、世界中の人の脳内のiBookには、イギリス人の作った言葉、場面、キャラクターがいちばん多くストックされていることは疑いなく、そのことは、文学の表現法と無関係ではないように思える。
 それはシェークスピア劇の影響だろうか、などと深く立ち入るのは今日はナシにして、とりあえず、ジェーン・オースティンだ。ともかく、誤解を恐れずに言えば、この『高慢と偏見』という小説など、キャラクターなにしにしては何の魅力もない。とくに、これだけ結婚と経済力の関係性がみなの関心事になっている昨今、ベネット家の次女リジーだけは、財産のある人からのプロポーズを二度も断っている。彼女はベネット家の五人姉妹のなかで、とりたてて美しいほうではない、というのだから、作者としては、この主人公がこんなにモテる理由をどうやって読者に「見せる」かが腕の見せどころとなる。
このことにオースティンが大成功しているのは、彼女がコリンズ氏のプロポーズを断る場面を読むだけでも明らかになるだろう。理屈っぽい会話と地の文が多いこの小説にあって、彼女の動きだけが唯一人間くさい。

「自分の意見をけっしてかえない人は、最初に正しい判断を下しておくことが、特に必要ですわ」
「お聞きしますが、そういう質問をなさって、なんになるのですか!」
「あなたの性格の例証になるだけですわ」彼女は、つとめて表情をやわらげながら言った。「わたしあなたの性格を例証しようとしてますのよ」
「うまく行きますか?」
彼女は頭をふった。「まるでだめですわ。わたしあなたについていろんな説をお聞きするんで、とても困ってますのよ」
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(『高慢と偏見』 富田彬訳 岩波文庫