21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

雑感:文体について

 のっけから宣言すれば、プロの書評家ではないので、このブログを書くときに、紹介する本の文体を無意識にマネしてしまっていることは自覚しているけれど、直すつもりはない。でも、さすがに前の村上春樹の項を書いたとき、自分が書いた文章と、その下に引用した文章に、まったくおなじ構文(「〜がゆえにかえって」)が出てきたときは、ちょっとびっくりした。
 その人の言葉とは、読んだものとか聴いたものとか見たものに影響されると思う。(ゆえに私の英語など、どう考えてもロシア語なまりのJapanese Englishになってしまっていると思う。ぜんぜん関係ないが、きょう枝雀師匠の英語落語のCDを聴いていたら、「私のJapanese English, Osaka Dialectをなんとか理解してくれ」と繰り返し強調していておもしろかった)。そしてある程度そのことに自覚的にならなければいけないと思う。たとえば私は文末に「けれど」を多用するが、これは丸谷才一文章読本』で、「文末に『である』などを多用する文章はつまらない、たとえば『けれども』などを使って変化をつけるべきである、とかいうことが書いてあったような気がするから。あと、カッコの多用は景山民夫のエッセイのパクリである。さんざん広告代理店の悪口を書いたあと、「たとえば、大手広告会社のD(註・電通のこと)やH(註・博報堂のこと)などは……」と書くやりようなどは、中学生のころに読んだ文章だが、頭から離れない。
 さて、私はなぜかひらかな5文字か6文字の言葉がすきである。たとえば「美しい」と書くよりは「うつくしい」と書きたいし、「ありきたりな」とか「ありふれた」とかいう言葉に情緒をかんじる。不活用の言葉か活用した言葉かはあまり関係ない。これはそれこそ村上春樹の文章とかに脳を侵食されているのかな、と思っていたが、今日なにげなくスピッツの「ハチミツ」を聴いていて、「あからさまな」(歩きだせ、クローバー)「なまぬるい」(愛のことば)「ありふれた」(ロビンソン)などといった言葉が効果的に使われていることに気づいた。それこそ私が高校生のとき、スピッツミスチルのアルバムは、ロックに対し失礼な話だが資本主義の権化のように売れていたので、資本主義に完全には染まらないつもりの私も染められていたのかも知れない。

昔あった国の映画で 一度観たような道を行く
なまぬるい風に吹かれて
今 煙の中で 溶け合いながら 探しつづける愛のことば
傷つくことも なめあうことも 包みこまれる愛のことば