21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

A.チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』 「ワーニャ伯父さん」

嫌いだな、そういう哲学。(33ページ)

 私がいまの会社に入るのを決めたとき、読んでいたのが車谷長吉の「漂流物」で、そのなかのひとりの登場人物が、「入社式のとき、『ああこれでおれの人生は終わった』、と思った」と言っている。今回、この「ワーニャ伯父さん」を訳したのは、私の恩師の一人でもある浦雅春先生で、先生はこの本の「訳者あとがき」のなかで、「思えば『三人姉妹』はぼくの人生を誤らせた作品だ」と書いている。
そして劇中イリーナはこんな言葉を吐く―「ポエジーも思想もない労働なんて」と、この言葉にぼくは脳天をぶちのめされた。それは日ごろぼくが感じていたことにほかならなかった。「そうだよな、ポエジーのない仕事なんかやってられないよな」と、ぼくはすっかり感化されて、広告会社をあっさり半年で辞めたのだった。(訳者あとがき)
 「脳天をぶちのめされた」のだとすれば、同じく広告会社を辞めて「漂流物」としての人生を送っていた車谷長吉に、完全に自己投影していた大学院時代の私としては、この「漂流物」の中の台詞に、脳天をぶちのめされてまったく逆方向に飛んで行ったのだ、と言える。なるほど人生の輪廻、というか縁というのはおそろしいものだ、と思わされるが、ポエジーのない労働に埋もれてみると、不思議なことに「ワーニャ伯父さん」がよくわかる気がする。
 「ワーニャ伯父さん」は、言わずと知れた、才能があるんだかないんだかよく分からない身内の老教授セレブリャコフのために、一生を捧げてはたらいたものの、いざセレブリャコフと一緒に住んでみると、どうしようもない男だったので殺そうとする、という話だが、ひさびさにこの戯曲を読んで感じたのは、ワーニャが一生をかけた領地を売り払おうとするセレブリャコフが金勘定をはじめる場面に、である。ぶつぶつ文句ばかり言っていたワーニャがこの時ばかりは切れてしまうのだが、この場面での彼の激情が今の私にはよく分かる気がする。きさま、金勘定すら俺には任せられんと言うのか、という感覚、否、俺の仕事をとるな、という叫びである。事実、すべてが終わってから、彼とみすぼらしいソーニャは貸借の計算をはじめる。悲しいにもほどがある……まあ、わかるようになったからと言って得した気分にはならないのだけれど。
 さて、こんかいこの新訳を読んで、もう一つ気になったことは、なぜだかみんな二日も寝ていない、ということである。ワーニャなど教授夫妻がやってきてから、ソーニャにばかり働かせて、自分はぐうたらしている、と冒頭で宣言しているにもかかわらず、だ。それだけ人間にとって、自分の人生とは何か、と考え出すことは体に悪い、ということだろう。それはさておき、もう一度「訳者あとがき」にもどれば、先生の自虐ぶりは自分をセレブリャコフに投影するまでに至っているが、私としても、ここまであられもなくチェーホフに自己投影してしまえるのは、この新訳の力と言う他ない。

あたしが働きたいって気になったのは、暑い日に喉が渇くでしょ、あれと同じなの。もし、あたしがいつまでも起きなくって、骨身を惜しむようなら、金輪際あたしとは口をきかないでくださいね(「三人姉妹」)

『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』 浦雅春訳 光文社古典新訳文庫