21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー『鉄の時代』 第3部

あらゆる追想に先立ち、驚愕して立ちつくすその瞬間に、人形は永遠に存在する。ひとつの生命が奪われるとき、生命は彼らのものではなく、名ばかりのものとして彼らが残される場となる。彼らの知識は実態なき知識であり、現世の重みをもたず、人形の頭のように、からっぽで、空虚。彼らは赤ん坊ではなく、赤ん坊のイデアであり、現実の赤ん坊にはありえないほど、まるみを帯びて、濃いピンクで、無表情で、目も真っ青。そして生命ではなく、生命のイデアを生きている。死ぬことのない永遠の生命を、すべてのイデアがそうであるように。(131ページ)

 第3部は本書の中核をなす章だ。黒人家政婦フローレンスの息子であるベキの死、そしてその友人である少年も銃殺されるに至り、老婦人の生は終末にむけて歩みはじめる。「人形の生」のくだりは、この作品のなかのクライマックスと言えるだろう。しかし、クライマックスにおいて、神の王国の到来にむけて人間が進化し続けるキリスト教的な世界観は崩壊し、プラトンイデアの世界にもどるとともに、さらには無垢であるべき人形、それに象徴されるイデアまでもが、この世界では恥辱にまみれた仮の生命にすぎないことがあきらかになる。すでに現世においては物自体までが汚されているのだ。

恥のなかで生き、恥にまみれて死ぬ、惜しまれることもなく、いずことも知れぬ場所で。それを私は受け入れた。自分だけで切り離そうとは思わなかった。わたしが頼んだために罪が犯されたわけではないけれど、でもそれは、わたしの名において犯されたものだから。(196ページ)