21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

村上春樹『1Q84』 BOOK1 第19章「(青豆)秘密を分かち合う女たち」

しかしそれでも月だけはくっきりと見えた。(BOOK2 第18章「(天吾)寡黙な一人ぼっちの衛星」)

 この本を読んでいると、いろいろな本を思い出す。それは引用されているような文学作品ではなくて、20世紀の日本のミステリだ。桐野夏生『OUT』、宮部みゆきクロスファイア』、大沢在昌『屍蘭 新宿鮫Ⅲ』、志水辰夫『行きずりの街』、貫井徳郎『慟哭』、天藤真『わが師はサタン』云々云々。面倒くさいからイチイチどこがどう連想される、とかは書かないし、もちろんこれらのミステリも、いろんな外国作品のパロディなのだろうし、本歌取りのもとを探してもしょうがないと思う。さらには形式は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、またはまだ定かではないが(続篇が書かれるのかどうかわからない、という意味で)『ねじまき鳥クロニクル』で、行きずりの異性と寝たり、だいじな文章を太字にするところとかは『ノルウェイの森』という風に、自分の作品までパロディにしている。
 さて、わりとあっさり青豆の殺人が「正義の殺人」として納得されているように、ドストエフスキーが地上最低の悪として描いた少女凌辱もあまり切実さがない。(ないにこしたことはないが)。つまりは19世紀の苦悩をパロディしていた、20世紀の洋ものミステリをさらにパロディした和製ミステリの切実さですら薄まりきってしまって、ここには存在しない。そして勿論のことだが、苦悩や切実さが存在しないからといって、作品としての価値が貶められることなどない。つまりはこの本は、意識したかしないかによらず、「ない」ことを書いている本だからだ。
 一方で、1984年といえば、まだソ連とか東ドイツとかも「あった」時代のことである。だからコミューンとか安田講堂とかもモチーフとして登場するのだが、やはりとても現実感がない。下手をすると暴力的な宗教セクトすらすでに大昔の話のことのように思われて、村上春樹はその現実感のなさに警鐘を鳴らしている気がしないでもない。

なぜならばこの自然界において、人が自分自身以上のものになることは、自分自身以下のものになるのと同じくらい罪深いことであるからだ(BOOK2 第13章「(青豆)もしあなたの愛がなければ」