21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

Kazuo Ishiguro "Never Let Me Go"

「いいこと教えようか、キャス。ヘールシャムでサッカーをやってたときな、おれには一つ秘密があった。ゴールを決めるだろ? そうしたらこういう恰好で振り向いてな……」トミーは歓喜のポーズで両腕を突き上げました。「で、仲間のところへ駆け戻るんだ。わけのわからん喜び方はしない。こうやって両腕を突き上げて、駆け戻る」トミーは両腕を伸ばしたまま言葉を切り、腕を降ろして、にやりとしました。「駆け戻るとき、頭の中で何を思ってたか分かるか、キャス? 水を蹴散らして走るところだ。深い水じゃない。せいぜい足首まで。いつもそれを思ってた。バシャッ、バシャッ、バシャッ」そして、もう一度腕を突き上げました。 「気持ちよかったぜ、点を入れて、振り返って、バシャッ、バシャッ、バシャッ」トミーはわたしを見て、又笑いました。「いまのいままで、誰にもはなしたことがない」
 わたしも笑い、「ばかじゃないの、トミー」と言いました。
土屋政雄訳 第二十三章)

 Never Let Me Goを英語で読み終えた。邦訳で読んだとき、土屋政雄氏の訳は完璧におもえたのだけれど、原文の方が音が痛々しく響いている。たとえば上の文章の後半はこんな感じだ。

"In my head, Kath, when I was running back, I always imagined I was splashing through water. Nothing deep, just up to the ankles at the most. That's what I used to imagine, every time. Splash, splash, splash." He put his arms up again. "I felt really good. You've just scored, you turn, and then, splash, splash, splash." He looked at me and did another little laugh. "All this time, I never told a single soul."
I laughed too and said:"You crazy kid, Tommy."

キャスの「ばかじゃないの」がいかに名訳かはつたわるが、「splash, splash, splash」の悲しさは伝わらない、原文はあくまでも残酷で、一つ前の章でマダムが「かわいそうな子たち」と言うとき、ほんとうは彼女はこう言っているのだ。"You poor creatures"

Never Let Me Go faber and faber, 2005
(邦訳)『わたしを離さないで』 土屋政雄訳 早川書房