21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

吉田健一『英語と英国と英国人』

英語は今日、世界に住んでいるものの半分が毎日使っているもので、探検隊を組織して密林に分け入り、重い石を担いで帰って来て、その石に刻まれた各種の印を場合によっては何十年も掛って解読するのとは訳が違う。英語を習う位のことにシャムポリオンの態度を取るならば、古代エジプトの文字の秘密を探るというようなことは人間業ではなくなり、そして人間業でないと思うのは、英語を習うのに大騒ぎする人間の錯覚に過ぎない。(「英語教育に就いて」)

 さて、吉田茂の長男である健一氏の英語に関するエッセイ集。柳瀬尚紀という、学者としては優秀なのだろうが、どうしようもなく文学的センスの欠如した翻訳者による解説がついていて、吉田健一の文体を模倣しているのだが、こちらはだいたい三行も読めば、うんざりするほど陳腐な繰り返しに食傷してしまう。ただし、この解説は文体研究としては、おそらくそれなりに良くできていて、なるほどこの皮肉っぽい文体はこのようにして出来ているのかと納得できる。また、吉田健一の文章に句読点などいらぬ、それはこの作家の文章の「肺活量」によるのだ、とい指摘にも感心する。
 また一方で、下手に文体を模倣して大ケガしているこの解説を読めば、まったく痛苦なくこの読み辛い文体を読ませきる吉田健一のセンスにも恐れ入る。そもそもこの本に書いてあることは、「英語など文法書を一冊読んだあと、20冊も本を読めば自然に覚える。学問としてやるなど馬鹿である」、というようなことの繰り返しだが、それでも飽きずに読んでしまうのは、やはりセンスの良さによるのだろう。
 ともかく、大したことは書いていないのだが、この本を読むと、みょうにイギリスに行きたくなる。たとえば、「食べものと飲みもの」、というミもフタもないタイトルのエッセイからの一節。ハムの匂いを嗅ぐだけのためにロンドンに行っても良いような気にすらなる。

話が飛ぶが、ハムも旨い。英国の食べもののことを思うと、不思議に匂いがまず記憶に戻って来て、あの英国製のハムにしても、少くとも戦後の日本にはもうなくなった、その匂いが懐しい。これをお茶の時に出されて、どうやって食べたのか、もう忘れてしまった。肉付きのお茶のことを、何とか言ったようである。こういう風にあやふやなのは、以上書いたことの大部分が、子どものころの思い出だからかも知れない。この間、又行ったときは、主に飲んでばかりいた。

(『英語と英国と英国人』 講談社文芸文庫