21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

V.スワラップ『ぼくと1ルピーの神様』 第5章「オーストラリア英語の話し方」

彼女が心からそう言っているのか、映画のセリフを引用しているだけなのか、僕には分からない。(「悲劇の女王」)

 さて、言わずと知れた「スラムドック・ミリオネア」の原作本だが、小説としていい出来とは言い難い。クイズと、インドの貧しい少年の人生を並列にして見せる見事な構成、画面映りのよさそうな鮮烈なシーンからして、映画がおもしろいのは間違いなさそうだが、小説の方は使い古された童話のような物語と、けっこう陳腐な言い回しですこし飽きがくる。なによりも、あまり現実の痛みを感じさせない、悲惨なシーンの連続はあまりいただけないと思う。
 だが、この「オーストラリア英語の話し方」は、絶妙の具合を保っている。使用人の悪事は「何でも知っている」オーストラリア駐在武官のテイラー大佐。盗みなどしてもいいことはないと知っているのに、豊かな外国人の生活を目の当たりにしては、盗みに手を染めてしまう使用人たち。そして、盗みこそ働かないものの、子どもたちの持っている『オーストラリアン・ジオグラフィック』に夢中になる主人公トーマス。この一話のオチも、ありきたりではあるのだけれど、絶妙なバランスの上で光かがやいている。
 かくも小説とは不思議なものだと思う。この一連の物語が一級のものであるのは事実なのだが、ほかの物語は小説としてのバランスが悪いので、読んでいて気持ちが落ちつかない。ただ、ひょっとするとまだ観ていない映画ではカットされているかも知れない、この一篇は何度でも読み返したいくらい完成度が高い。主人公が飢えてゴミ箱をあさったり、命からがら悪党の手から逃げのびる場面より、『オーストラリアン・ジオグラフィック』が古紙回収に出される場面の方が、はらはらするくらいだ。
 なんだか勢いでネガティヴなことばかり書いたが、この小説が面白いのは事実で、読んで損はしません。ただ、これを読んで現代インドの現実が分かる、というのはたぶん大嘘だと思います。

ある国の政府が外交官に対して、”ペルソナ・ノン・グラータ”を宣言するとき、それはどんな意味でしょう?(191ページ)