21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

I.マキューアン『贖罪』 第一部

姉もまた、意識と動作が形作る、砕ける寸前の波のような境界線の後ろに本当の自分を隠し持っており、顔の前に指を立ててそのことを考えこんだりしているのだろうか。人はみなそうなのだろうか、たとえば父親は、ベティは、ハードマンは? 答えがイエスであるならば、この世界、人間たちの織りなす社会は、二十億の声を抱えて耐えがたいほどに込み入っているのであり、すべての人間の思考は同じ重要さで主張しあい、人間ひとりひとりの生への要求は同等に強烈で、人はすべて自分が特別の存在だと思っているが、実は特別な人間などいないわけだ。(65ページ)

タリス家の末娘ブライオニーは、物語を紡ぐことで自分が世界に干渉できる、と信じて疑わない。彼女の犯した「罪」については、また全体を読み終えてから書くとして、マキューアン独特の自意識の感覚にここでは触れておこう。あたかも脳を、六十億個が世界に出回っている量産型の精密機械にたとえた脳外科医ペロウンのように(『土曜日』)、ブライオニーも身体を一つの機械ととらえ、そこに人間の意識、あるいは意志が届く瞬間をおそろしいと思う。意識と身体、あるいは運動のあわいにあるものを「魂」とよんだりして、彼女の哲学的な想いは、わりかし陳腐なのだけれど、驚くべきはその行為が、世界中でおよそ何十億という規模で行われることに対する、徹底的な不快感である。自分と同じ機構をもって動いている存在が、自分のほかに、さらにはかくも大量にいてはいけない。この意志の強さは、ドストエフスキーの地下室人やラスコーリニコフをはるかに凌ぐ。(そもそもあいつら結構優柔不断だし)
この物語の第一部では、ブライオニーの願望が結実しているかのように、他の登場人物はありきたりに演技してくれる。ラブレターとエロメールを入れ間違えた恋する男、エロメールで自分の愛を認識してしまうニコチン中毒の女をはじめ、他の文学作品(たとえばもちろん、チャタレイ夫人の恋人)のできそこないのパロディのように動く。できそこないの心理劇を背景に、少女の悪意は増長していくのである。

(『贖罪』 新潮文庫