21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

D.デフォー『ロビンソン・クルーソー』 (一)

つまり、お前の身分は中くらいの身分で、いわば下層社会の上の部にいるというわけなのだ。自分の長年の経験によるとこのくらいいい身分はないし、人間の幸福にも一番ぴったりあってもいる。身分のいやしい連中のみじめさや苦しさ、血のにじむような辛酸をなめる必要もない。身分の高い連中につきものの驕りや贅沢や野心や妬みになやまされる必要もない。(12-13ページ)

 ロビンソン・クルーソーは17世紀のイギリス人で、職業的には貿易商、ということになるのだろうか? 父親から徹底的に中流思想を叩き込まれながら、それに反発して海へ出た彼も、漂流してしまうとかえってその経済人としての姿が出てくる。自らの不幸と幸福について、借方と貸方を立てて帳簿をつけてしまうのだ

(悪い点)
・私はおそろしい孤島に漂着し、救われる望みは全くない。
・私は全世界からただ一人除け者にされ、いわば隔離されて悲惨な生活をおくっている。
(善い点)
・しかし、他の乗組員全員が溺れたのに、私はそれを免れてげんにこうやって生きている。
・だが自分一人が乗組員全員から除外されたからこそ死を免れたのだ。奇跡的に私を死からすくってくれた神は、この境遇からもすくいだすことができるはずである。

ロビンソンは幸福の貸借対照表で、「貸方のほうに分がある」ことに慰めを見出す。(しかし貸方に分がある、ということはバランスしていない、ということなので、現代の会計基準から考えると不思議な表現でもある)。
 ところで、こういうロビンソンの考え方は、現代の自己啓発本にでも出てきそうである。一方で対数表で幸福を計算しつくした世界を否定するドストエフスキーの地下室人や、そもそもロビンソン以外の船乗りがみんな死んでいることを赦せないであろうイワン・カラマーゾフの考え方とは正反対である。言ってみれば、下流とか勝ち組とか言っている現代は、17世紀人の発想にまで対抗しているのかも知れない。ま、だからといってどういうこともないが。


(『ロビンソン・クルーソー平井正穂訳 岩波文庫