21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

現代詩文庫141 『野村喜和夫詩集』

直立してむしろ私は私の空間をつくらなければ
と思った
陽のように射すそれと
射される地のおもてとのあいだで

(「私のかわいいエイリアン」)

 マイ・ブラッディ・バレンタインの「LOVELESS」というCDを聴きながら昼寝をすると心地よい。その寝やすさ、心地よさは米朝師匠の話芸に匹敵する。1991年に発売されたこのアルバムは、レコード会社を倒産させかけるほどの制作費をかけたのだそうだが、およそロックとは思えない不思議な音が鳴っているにも拘らず、その音に不快なところがまるでない。1991年に、たぶん私は小学生だったが、(だから、今になって初めて聴いているが)、それはおそらくロック界を揺るがす大革命だったろう。
 さて、野村喜和夫の詩は、それに比べればより多くの雑音に満ちているものの、「現代詩」のなかでは、かなり雑音が廃されたものになっている。

(後半三十九分、紅葉走る、紅葉走る、卵を、ひりだされた卵を、無限からひりだされた卵を、眉山ら、眉山フォワード、眉山フォワードが押し込んだセットスクラム、のような無限、硯友社跡の無限、すなわち眉山フォワードが押し込んだ熱いセットスクラムのような硯友社跡の無限からひりだされた卵を、紅葉とらえ、スクラムハーフ紅葉とらえ、走る、フェイントで、フェイントで左に出ると見せ、右のブラインドサイドを、紅葉突破、紅葉突破、と誰もが思う、もうつぶされたと誰もが思う、三人の敵に囲まれてもうつぶされたと誰もが思う、そのとき、卵が、紅葉から卵が、紅葉からパスされた卵が、紅葉から美妙にパスされた卵が、紅葉からミリ単位で測ったように美妙にパスされた卵が、さらに小波にパスされ、小波走る、小波走る、卵をかかえ、卵になって、卵のまま、瞬間の卵のまま、あとわずかな瞬間の卵のまま、トライまであとわずかな瞬間の卵のまま、コーナーフラッグぎりぎりへトライまであとわずかな瞬間の卵のまま)
(「硯友社跡の無限」)

引用、イメージの奪還、そして何よりもくどいほど繰り返される関係代名詞っぽい連呼は、フランスっぽい現代詩の人が良く使うものだが、野村喜和夫の詩の中では、それが移動のイメージのなかで、わりと綺麗に消化される。
しかし、この「卵が、紅葉から卵が、紅葉からパスされた卵が、紅葉から美妙にパスされた卵が、紅葉からミリ単位で測ったように美妙にパスされた卵が」みたいな芸風はいったい最初に誰がはじめたのだろう?

(『野村喜和夫詩集』 思潮社