21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

I.マキューアン『土曜日』 第一章

高価な車と同じで、脳というものは精巧だがやはり大量生産品であり、六十億個以上が現在出回っている。(第二章)

 イアン・マキューアンの『土曜日』の第一章は、「土曜日という不思議なオブローモフ」について書いた章である。常人の十倍くらいのスピードで脳が回転する、敏腕脳外科医が、その頭の回転の速さゆえにかけめぐる異様な妄想に悩まされながら、100ページちかくもの間ベッドを出ない。(実際には66ページだが)。美人の妻はこれまた敏腕弁護士であり、娘は才能が認められはじめた詩人、息子は一部で人気の出はじめたミュージシャンという、頭の悪い妄想のようなしあわせ家族に囲まれた彼は、その頭の回転の速さゆえに、文学以外のたいていのことは理解できる。

飛行機はタワーを越え、少し北向きに進路を取って、さえぎるもののない西の空の奥へと遠ざかってゆく。ゆっくりと遠近感が変わるにつれて、火は小さくなってゆくような気がする。いま見えるのは、もっぱら胴体の尾部と、点滅するランプだけだ。エンジンの苦しみの音も薄れてゆきつつある。車輪は出ているだろうか? そう思いながらも、出ていてくれ、出ているに違いないという思いが湧いてくる。これはある種の祈りだろうか? 誰かの恩寵を求めているというわけではないのだが。ついに着陸灯が見えなくなってからも、爆発の光景が今にも見えそうな気がして、長いあいだ目が離せない。(23ページ)

 約束された土曜日に曇りをかけて、火を噴く飛行機。それを眺めながらのペロウンの妄想はとどまるところを知らないながらも、最終的には彼の膨大な知識の中に回収されていく。環境に恵まれた彼が、この世界を唾棄することはないが、自分にとって説明できないところはないこの世界を、ひややかに眺めていることは確かである。
 ゴンチャロフの主人公オブローモフは、あくせく働いている人間を見て、「いつ生活をはじめるつもりなのだろう?」と思いながらベッドにひきこもっていたのだが、一度にいくつもの手術チームをかけもちする、ペロウンほどの回転の速さをもってすれば、「生活」はウィークエンドに片付けることができるのだ。はたして、つづく章で、彼の満ち足りた「生活」は乱されるのか、この本は退屈なようで、目を離す事ができない。

(『土曜日』 小山太一訳 新潮クレストブックス)