21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー『ペテルブルグの文豪』 第六章

鉛の箱の中には銀の箱。銀の箱の中には金の箱。金の箱の中には白い服を着て手を胸の上に組んだ若者の遺体。その指の間に電報。彼は電報をじっと見る。視線が揺れ惑う。そこにはない許しの言葉を捜し求めて。電報はヘブライ語、古代シリア語、彼が見たこともない符号で書かれている。(第十八章「日記」)

 クッツェーはパロディの名手である。過去の文学作品からの引用、文学史的知識を自在に操り、それをクッツェー流の物語につむぎ直す。それは、村上春樹の翻訳が、すべて「村上春樹風」になってしまうのとは異なり、あくまでもクッツェーの小説として成立している。
 で、あるがゆえに、本書を読むにはかなりドストエフスキーに関する知識が必要になるだろう。自殺した(ことになっている)彼の継子パーヴェル・イサーエフは、最初の妻、マリア・イサーエヴァの連れ子であり、その妻の死に際して作家が、「肉体の復活」を真剣に希求したメモを残した、とかいう文学史的知識。また、本書に登場するネチャーエフやイワーノフが、作中人物ピョートルやシャートフのモデルになるという、長篇小説『悪霊』の成立史。そして作中には、『罪と罰』『虐げられた人びと』『永遠の夫』、そして何よりもドストエフスキーの作品中、もっとも「キャッチィ」な(言葉の使い方が正しいかどうかは分からない)『悪霊』のモチーフが鏤められている。本書が読者に対して要求する予備知識はやたらと多い。
 そんなことはさておき、パロディというのは、なにかに何かを投影させる行為なのだと、感じさせてくれるのが本書でもある。
 第六章「アンナ・セルゲイェヴナ」において、主人公の作家は、この架空の未亡人との情交の中に、死んだ息子を求めようとする。「だれかを通して誰かに達する」、ということがひとつの主題であり、作品中を通してそれはくりかえし変奏される。作家は、アンナを通じて、自分の息子への閉ざされた道を求め、また、同時に未亡人の幼い娘へも通じようとする。年の近い彼女へ、「『この女なら愛せる』身体に引かれる以上に、彼女に対しては血族としか呼びようのないものを感じるのだ」とひとりごちる彼は、女を通じて彼自身へも通じる道を探す。さらに、死んだ息子の白いスーツを思わず身につけてしまう、ちょっと気持ち悪い作家は、変装という行為を通じても、息子の「霊」にたどりつこうとする。そして、それら全ての行く末には、彼の創造による悪霊スタヴローギンが身を潜め、不気味にその姿を浮かび上がらせる。
 人は、人をすりぬけて人を求め、世界を探す。たどりついた先がこの世か、別の世界かは、たどりついてみないと分からない。

(『ペテルブルグの文豪』本橋たまき訳 平凡社