21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

F.M.ドストエフスキー『地下室の手記』第二章

「どうしてお墓の中に水が?」女は、幾分好奇心を示して訊ねたが、口のきき方は、前よりもいっそうぞんざいで、ぶっきら棒だった。俺は、不意に何かにそそのかされた。
「そりゃそうさ。そこに三十センチほども溜まってるんだ。ここのヴォルコヴォ墓地じゃ、墓を掘ったって、乾いた土なんか出てこないんだよ」
「どうして?」
「どうしても、こうしても、あるもんか。じめじめした土地だもの。ここは、どこもかしこも沼地なのさ」
(179-180ページ)

 サンクト・ペテルブルクは18世紀の初頭に、ピョートル大帝が建設した人工都市である。フィンランド湾に面して建設されたせいか、モスクワと比べ、ずいぶん水分が多く、人びとは洪水などの被害になやまされたという。
 そのためか、『地下室の手記』には(というか、ドストエフスキーのペテルブルク描写には)、湿気に対する憎悪が満ちている。
 たとえば、「(辻馬車の御者は)ラシャの百姓外套を着込んでいるが、まだ降りしきる水っぽいまるで生暖かいような雪に、全身すっぽり覆われている。もうもうと湯気が立つようで、息苦しい」(163ページ)。「陰鬱な考えが俺の脳裏に浮かび、湿気たかび臭い地下室に入ったときのような、なんとも言えない嫌な感覚が全身を駆け巡った」(175ページ)のように。この感覚には、多くの読者が気づくだろう。とくに安岡訳では、原文では水のイメージで描かれていない部分も、「流れる」「淀む」などの訳語が使われており、より「ぼた雪に寄せて」というタイトルと主人公の不快感の関連性が意識されるようになっている。
 だが、『罪と罰』でもくり返される、堕落した女(=娼婦)と告白というエピソードに、新約聖書の影響を見るのならば、キリストの物語は砂漠の物語であったことを思い出さねばならないだろう。実際に、かくも水蒸気に対する憎悪を見せた主人公も、リーザに軽蔑されるかも知れない、という恐怖心にさいなまれ、勝手に窮地に陥ったときには、「水だ、水をくれ、ほら、あそこにある!」、と叫ぶ。本当におそろしいのは生命を育む水ではない。まったく水がない状態だ。終末部では、屈辱、病んだ意識、そして泥ですら、自分が侮辱したリーザをなぐさめてくれるだろう、と独白する。
 腐った理想が嫌でひきこもりになった地下室人だが、やはり理想はなくては生きられない。この矛盾が、彼の堂々めぐりを永遠のものにしている。