21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

福井勝也 『日本近代文学のとドストエフスキー』第二章(五)

 市民文学サークル「ドストエーフスキイの会」の運営委員である、福井勝也氏よりご著書を送っていただいたので、僭越ながら感想文を。
 本書第二章(五)では、院生時代に私が同会で行なった発表について触れていただいている。自分が話し、書いたことについて、活字でレヴューされる、ということの面映さはもとより、そもそも文学について語る(「書く」ではなく)ということが、なかなかに歯痒い。だいたい読書体験はそれぞれに違うのであるから、聴いている側は守備範囲でないところに話が及ぶと、無理から自分の領域に話をひきつけようとして、話がどこか噛み合わなくなる。ひどい人になると、ライトスタンドにホームランが飛び込んでいるのに、サードからそれを無理やり捕球しようとする。挙句の果てに、「そもそもライトなど存在しない」とか言ったりする。そして、文学の可能性をせまいところに押し込める。
 少なくとも本書第二章(五)にそれは感じない。会で発表した際には、私が流し打った凡フライをショートの定位置からわざわざ捕球してもらった、というような申し訳なさを感じたが、大学院を辞めた今、こうして文章を読むと、一連のプレーは自然なものであったような気がする。さっきから迂遠な言い方をしているが、柄谷行人を基本に日本文学とドストエフスキーを語る福井氏の論に、若干の違和感を感じたのも今は昔、本書は木下豊房『近代日本文学とドストエフスキー』(成文社)に連なる「ドストエフスキー体験」論として、非常に面白く読めた、ということである。引退した川藤が松井のバッティングを「解説」するようなものかも知れないが。
 閑話休題、私が神観念を中心としたドストエフスキーの世界観に拘泥していた一方で、福井氏は本書を通じて、小説とはなにか、を問う。言い換えれば、近代というものの成立の上で、あるいは「近代」を成立させる上で、小説がどのような役割を果たしたのか。近代日本文学において、ドストエフスキー(体験)が常に、この作用の触媒として機能してきた。とくに氏のナラティヴ(=語り手の問題)に関する感覚は抜群である。本職の研究者でも(には)、ここまでスケールの大きいナラティヴ論を成立させることはできないだろう。

「すなわちこの時に、三人称客観描写のリアリズム小説がより純化された文学スタイルとして、そしてそれがあたかもずっと以前からあったかのように他の文学形式を圧倒してゆくということになるわけだ。小説という文学形式が近代という時代の所産であるにもかかわらず、あるいは近代の所産であるために、なおその起源が忘却させられる<転倒>がここにできあがるのだ。(中略)ここに至って、二葉亭の言文一致小説『浮雲』を生む契機となったドストエフスキーの文学は、その本質的なスタイルとその意味を忘却されると同時に、新たな誤読・誤解を受けて日本近代文学史のなかでさらにへんようされてゆくことになる」(39-40ページ)

 そもそも読書「体験」とか言う次点で、それが誤読であり誤解であるのは当然だ。ひいてはそれは、読者も巻き込んだナラティヴの問題と不可分である。自我や自意識の問題を持ち出すと、大風呂敷を広げているように思われるが、大風呂敷は広げてナンボなのである。

(『近代日本文学の<終焉>とドストエフスキー -「ドストエフスキー体験」という問題に触れて-』 のべる出版)