21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.M.クッツェー 『エリザベス・コステロ』第三章に関して

 ジョン・マクスウェル・クッツェーの作品を、「ポストコロニアリズム」という、それ自体が支配者意識に満ちた視点で語ることの是非はさておき、『エリザベス・コステロ』は、南アフリカの作家が、オーストラリアの作家を主人公にして描いた見事な小説であることに変りはない。
 その第三章は、「アフリカの人文学」と題され、エリザベスの姉、シスター・ブリジット・コステロ名誉学位記念講演に仮託して、「人文学(ヒューマニティーズ)」という言葉の、人類の歴史に沿った遍歴を描いている。
 ブランチ姉は、聖書の原典をよむために始まった原典研究と、聖書の言語を読むために始まったギリシャ語に、人文学は端を発し、人類を救われていない状態から救うための研究として成立したと言う。聖書の原典研究と、古代ギリシャ・ローマ文化の研究は双子の兄弟として、人文学の根本をなすのだ、と。「いまよりもっと幸せな時代の人々は、大昔の古典には人生の教えや生き方の指南があるんだと、無理に思いこむこともできました」。人文学の学生たちを前にして、シスター・ブリジットは毒を吐く。
 人文学という、色んな意味で死にかけた学問について、そこにあるのは「人間を向上させる」という昔の夢の残滓だけなのだ、とキリスト教活動家ブランチは言う。アフリカという現実の中では、ルネサンスシェリングドストエフスキーといったキリスト教文化中の模造品は意味を持たず、ただ共苦するキリストへの信仰のみが生きられるのだ、と。それに反発する妹の小説家コステロは、姉に向けた届かない手紙のを書きながら、一つのエピソードを思い出す。癌で死にかけた老画家を慰めるとき、口唇性愛(注:フェラチオのこと)でかれを慰めるしかなかったグロテスクさ。それを彼女は発見し、それはエロスでもアガペーでもない、「ということは、ギリシャ人には名づけようにも適当な言葉がないということか? キリスト教がぴったりの語をもって現れるのを待つしかないのか? 同胞愛(カリタス)という語を」、と結論づける。
あたかも、大江健三郎の小説のような展開だが(そういえば『洪水はわが魂に及び』にそんな一シーンがあった)、かれが描くそれのように下品ではない。エリザベス・コステロ、あるいはクッツェー自身は、かつてドストエフスキーももてあましたテーマを21世紀の南アフリカに持ちこんでいる。それは、アパルトヘイト後とか、ましてや南北問題といったようなありふれた定型には持ち込めず、あたかも人文学そのもののようにして、体内を不快に蠢きながら、人間の歴史に食いこんだ楔である。

(『エリザベス・コステロ鴻巣友季子訳 早川書房