21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

K.イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』Part 3

警部、あなたほどの力量のある方はめったにいません。悪と戦う義務を課せられているわたしたちのような人間は、その・・・なんと言ったらいいですかね? ブラインドの羽根板を束ねている撚り糸のような存在なんですよ。わたしたちがしっかり束ねるのに失敗したら、すべてがばらばらになってしまうのです。あなたが任務を遂行されることが、とても大事なんですよ、警部。(Part 3 10)

 Part 3の副題は「1937年4月12日 ロンドン」であり、前章からほぼ六年の月日が流れている。当時のイギリスの学制を調べたりはしていないから、正確なことは言えないが、1923年に大学を卒業したクリストファーは、この段階で37歳くらいになっているだろう。
 この間、クリストファーの身には、二つの大きな変化が起こっている。ひとつにはほぼ三年前から、水難事故で両親を失った娘、ジェニファーを引き取って、「おじさん」となったこと。もうひとつは、「わたしたち」の片われであるはずの、サラ・ヘミングスが老貴族と結婚し、一年前に上海へと旅立ってしまったことである。
 ジェニファーにまつわるエピソードは、このひねくれた小説のなかでは素直すぎるくらい、切なく、美しく描かれている。彼女は、両親を失ってひとりきりであるという現実を、気丈に受けとめてはいるが、それでも時に、嘆息せざるを得ない。

「学校にいると、ときどき忘れてしまうの。ほんのときたまだけれど。他の女の子たちがするように、お休みの日までの日にちを数えながら、その日が来れば、またお母さまとお父さまに会えると思ってしまうの」(Part 3 11)

 ジェニファーは、孤児であることの悲しみを、クリストファーに思い出させる存在である。彼が手記を記している4月12日は、自分が上海に旅立つつもりであることを、ジェニファーの養育係であるミス・ギヴンズに伝えた翌日であるが、ジェニファー本人には旅立ちのことを伝えられずにいる。そして、二度も彼女に「わたしはいつもここにいる」と伝えてしまったことを、リフレインのように思い出し続けている。
 一方で、上海にまつわるエピソードは、彼の意識が「上滑り」をはじめたことを知らせる内容になっている。

わたしに言えるのは、それは何年も前から――ジェニファーがやってくるずっと前からーーわたしがときどき感じていた漠然とした気持ちから始まったということだけだ。その気持ちとは、どうやらわたしに対して不満を抱いているくせに、それを何とかうまく隠している人たちが存在するようだという気持ちだ。

 なんだか「ぼやっと」というよりは、「ぬめっと」した感じの被害妄想であり、これだけ見ると、どうしてジェニファーとの約束を破ってまで、上海に行く動機になるのかまったく分からない。だが、その後につづく刑事との悪にまつわる対話、そして、王立地理学会での参事会員との対話をみると、かれにとって、上海についての記憶、あるいは両親が上海で失踪したという、かれのトラウマが、かれの認知を歪めていることがだんだん分かってくる。
 次章から主人公は上海に渡るわけだが、このPart3は、現実と夢想の分岐点にもなっている。現実において運命をうけとめる存在であるジェニファーを離れ、かれと同じ夢想の世界の住人であるサラを追って上海にいくことによって、物語は混迷と自己完結の度合いを深めていく。