21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

田尻芳樹編『J・M・クッツェーの世界』

私はこれを物語という概念で説明してみたい。人間は、世界を絶えず意味づけながら生きているのだが、その意味づけの行為は、広い意味での物語作成と言い換えることができる。私たちは、明確に意識しないまでも、絶えず、現在を過去と未来に関係づけながら、現実を把握し了解している。私はこのように生きてきた、そしてこういう現在に至っている、未来はその延長上にこういう具合になるだろうし、また、こういう具合にしてゆきたいーースパンの長いもの短いものを含めさまざまなレヴェルで私たちは、このように過去、現在、未来を相関させ、時間を物語のように構成しながら生きている。(第二章 田尻芳樹「物語の外部へ」)

 むかし、自分でやっていたころはもっとしっかりそう思っていたのだけれど、文学研究とか文芸評論ということは、ひとつのエンターテイメントになりうると思う。J.M.クッツェーという作家の作品が、どうしても何かを語りたいという欲望を誘う、ということと相俟って、本書はたいへん面白いエンターテイメント作品として成立している。
 小説を読むとき人はそれなりにものを考えるはずだ。それは、自分をとりまく環境についてであったり、あるいは世界全体の成り立ちについてであるかも知れないが、ともあれ、この考えるという行為が読書というエンターテイメント形式の90%を支えている。と、勝手に私は思っている。とすれば、自分以外の人が仮説を立て、丹念にテクストを読みこんで論証し(あるいは、それ以外の人が考えたことから敷衍して)、結論のようなものを導きだす、というプロセスを楽しむ、ということは十分にできるだろう。もしこれができていないのだとすれば、大学という場を基本にした論文作成作業が、あまりに教育的なものになり、先行研究批判、テキスト解析、文学理論の援用、というものが必須条件になりすぎて、自分の考えを入れる隙間が無くなってしまっているからではないだろうか。まあしかし、大学と離れている人がかならずしもいい評論を書くのか、と言われればそんなこともないけれど。俗世間には市場原理というより恐ろしいものがあるので。
 さて、冒頭には『石の女』、『夷狄を待ちながら』、『マイケルK』を素材として、クッツェーにおける「物語批判」を説き明かした編者の論文を引いたのだが、ベケットサルトル、さらには三島由紀夫までを縦横無尽に引いた論の進め方がたのしい。なんとなく、こういう論文を書いていると、直接の影響関係がない作品を引くのはためらわれるものだが、自分の脳内でひとつの作品を噛み砕くときには、それまでの読書体験、というのはかならず背景にあるはずで、それをためらわずに出していることに快哉を叫びたくなるとともに、そのことが大きな説得力を与えている。加えて、論文の体裁は存在論的、政治的、倫理的な物語批判なのだけれども、上の引用部を読めば、物語が生きていく上ではなくてはならないものだということを、論者がしっかり押さえている点に安心感を覚える。つまり、クッツェーの作品は「物語の外部へ」向かうものだということ、に異論はないけれども、作家が考えていることは、人間にとっての世界をとりあえず骨組みのように支えている「物語」というものを、とりあえずぶっ壊せばそれでよし、というような安易なものではなく、その「物語」を超えたところにもうひとつの物語を見いだすところに価値があることが感得されるのだ。
 論文集なので、面白さの度合いは各論文によって違い、もちろん先行研究をつなぎあわせただけのような作品もあるのだけれども、それはそれでこの先自分が英語のクッツェー研究を全部読むわけではないし、面白く読める。文学研究書を楽しんで読む、ということを思い出させてくれた、という意味で、得難い一冊であった。

(『J・M・クッツェーの世界 <フィクション>と<共同体>』 英宝社 2006年)