21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

J.G.バラード『楽園への疾走』

「未来? ニール、核兵器なんかとっくに時代遅れよ」
「ぼくにとってはそうじゃないんだ」ニールはリモコンを彼女に向けてミュートボタンを押した。「サン・エスプリ島の重要な点は、あそこではまだ原爆を爆発させていないということなんだ」
「だから?」
「まだ爆発を待っているんだ。生と死だよ、キャロル、ワイキキではだれも聞いたことのないことばさ」
(「抗議もすぎると」)

 フランス軍の核実験からアホウドリを救うために活動する、四十代のイギリス人女医ドクター・バーバラはメディアをうまくつかい、支援者たちとともに、「絶滅危惧種を保護する地上の楽園を作る」という名目で、タヒチ沖のサン・エスプリ島に居すわりはじめた。だが、楽園だったはずの自給自足のコミュニティは、徐々に彼女の狂気におかされていく。一方、16歳の少年ニールは、肺癌におかされ自殺した父の記憶、放射線科の医師で英国の核実験にも立ち会った父の病の記憶にとらわれ、サン・エスプリ島に引きよせられ、ドクター・バーバラとともに過ごすことを選ぼうとする。
 バラードがなにを考えていたのか、ということは分かりようもないけれど、こんなシチュエーションで小説を書くということを、どうやって思いついたのだろう? 孤島ものというのは数多くあるけれど、その描かれる状況(つまり、孤島に閉じ込められる)に向けては、主人公たちは神(≒作者)の手によって強制的に移住させられるケースが多いが、この小説では、なんだか本当に導かれるようにしてそこへ達する。そしてそこにはゴールディングの『蠅の王』から桐野夏生の『東京島』まで、色濃く「神」の影が登場するのがお決まりだが、狂気のカリスマとして見えない伝染病のように権力をはりめぐらせるドクター・バーバラは宗教的なものからもっとも遠い存在である。この小説に「神」のにおいがするとすれば、それは特別な存在としてドクター・バーバラに取り扱われるニールであり、彼が夢見る核兵器だろう。
 ここのところ、『2001年宇宙の旅』だとか、『雪風』だとか、SFの名作を読んではテクノロジーに対する恐怖が、読み手である私から「遠い」とアホのように呟いていたが、この孤島ホラーでしかない小説から立ち上るSFの臭いは、私にとってもっと近い。それは、核兵器おそるべしとか、全体主義おそるべし、というところにはなく、ニールがみる電磁的な死の夢であり、ドクター・バーバラの狂った権力の伝染といったような、空気中に漂っているものの中にある。
 ところで、この小説は、意外に世代間の対立を書いているのかな、と思えてもきた。

ニールは診療所の彼女の机のすぐ横にすわって、採尿したばかりのガラス瓶をみつめていた。「結婚なんてこんなものなんですか?」
「必ずしもそうではないわ。結婚とは女が働いて男がのんびりすごすものよ——それは会社勤めと呼ばれているわ」彼女は斉藤教授がこもってめったに出てこない植物研究室をみつめ、それからカーリンが再建に着手した無線小屋をみつめた。
(「育種場」)

(『楽園への疾走』原著1994年 増田まもる訳 創元SF文庫)