21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

F.K.ディック『高い城の男』

「”出口”ね」アベンゼンは皮肉な口調でくり返した。
「先生はあたしに大きなものを与えてくださいました。やっとわかったんです。この世界にあるものをなに一つ恐れてはいけないし、欲しがったり、憎んだり、避けたりしてもいけない。逃げる必要もないし、追いかける必要もない」
(15)

 フィリップ・K・ディックが考えていたこと、というのはよく分からないけれど、この本についてとくべつに気を惹くのは、ものについて、ものと事実とのかかわり、ということだろう。物語は骨董(日本とドイツが戦争に勝った世界では、それはアメリカの遺品としてのミッキーマウスの時計だったりするが)を軸に回転していくが、骨董をあつかう老人が、愛人のリタにたいして、「フランクリン・D・ルーズヴェルトジッポー」について講釈を述べる。たとえ、彼が暗殺されたときにポケットに入っていたライターであろうと、老人にとってはそれはジッポーにすぎない。
 作中で、日本人の田上や骨董商のチルダンといった人物が、ものの「史実性」にしばられているにも関わらず、もっとも重要な人物で、「イナゴ身重く横たわる」の作者であるアベンゼンの認識は、おそらくは純粋なマテリアリストとして描かれているこの老人の認識に近い。アベンゼンアメリカとイギリスが勝利した、「もうひとつの現実」を小説世界で書き上げたけれど、あくまで、(易の助けを借りながら)そこにあるものをそれとして受け止めるだけだ。この小説の魅力は、このふしぎな二律背反にあると思う。

たとえば、ローズヴェルト大統領に関するわたしの記憶は、本物じゃないかもしれない。聞きかじったいろいろの噂話が蒸溜されてできた合成イメージ。脳組織の中へそれとなく植えつけられた神話。ちょうどそれは家具の場合とおなじだ。ヘッブルホワイトの神話。チッペンデールの神話。それとも、エブラハム・リンカーンがこの店で食事したというての由緒に来歴に近いか。リンカーンがこの古い銀製のナイフや、フォークや、スプーンを使ったというやつ。そのことは目には見えない。だが、事実はちゃんと残る。(9)

(『高い城の男』 浅倉久志訳 ハヤカワ文庫SF)