21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

今月読んだ捨ておけぬ三冊(6月編)

「墓は人ではないし、墓碑銘はその人の言葉ではない」飛浩隆「デュオ」)

 しばらくご無沙汰してしまいました。別に仕事が忙しかったわけではなく、どちらかというと丁度いいくらいだったのですが。更新を怠っていたのは、脳内が首位を独走する東京ヤクルトスワローズに占められていたからかも。スター選手がいるでもなく、ケガ人も多く、さらには地味な監督で、それでも粘り強く勝つ今年のヤクルトは、最高に私好みなんですよね。東京に住んでたら、神宮通いが忙しかったかも知れませんが、モスクワでもPCの前に座っていると、思わずニュースを読んでしまいます。今年のイチオシは岩手出身の畠山と、ルーキーの久古です。久古なんかテキストでだけ読んでて、顔知らないけど……いい選手です!

ウィリアム・フォークナー響きと怒り平石貴樹・新納卓也訳)

 ある種いきすぎな読解かも知れないけれど、フォークナーがこの作品で描いているテーマのひとつは、人間は時間ではなく経験に支配されている、ということなのではないだろうか? この小説において、私をとらえて離さないのは、第二章冒頭のクエンティンと父親の対話(、というよりは父親の一方的なモノローグ)。

人間の経験というものが所詮、お祖父さんやひいお祖父さんそれぞれの渇望を満たしはしなかったのと同様、お前の渇望だって満たしはしない、したがって経験には意味などない、という帰謬法の論理ってやつを、おまえがこれ〔時計〕を使って身につけるのは、まさに痛々しいほどうってつけな話じゃないか。

語りの問題に話を移すなら、ベンジーが語り手になっている第一章は、まったく時間に支配されていないわけだし、第二章はクエンティンの時間からの逃走になっている。しかしながら、ベンジーがその非・原罪性のゆえに無垢である、と考えることはできないだろう。ベンジー自身は時間を知覚していないけれども、経験は積みかさなり少なからず彼の生に影響を与えているのである。

大庭みな子『むかし女がいた』

 この本を読んで、思わず25巻本の全集を買いはじめた。徐々に、書くことも増えていくだろうと思うので、今は、文庫本一冊読んで全集を買いはじめるくらいの本だったと思っていただければよい。

冲方丁 『マルドゥック・スクランブル

 少女娼婦ルーン・バロットは、じぶんを請け出した男、シェルに殺されそうになるところを、「事件屋」のウフコックとドクター・イースターに救われる。禁じられた科学技術の使用を例外的に許可する、「マルドゥック・スクランブル09」を発動されたバロットは、周囲の(おもに電気的な)環境に干渉できる人工皮膚を手に入れ、ウフコック、ドクターとともに、シェルとその裏にある組織と闘うことになる。しかし、シェルはウフコックの昔の相棒、ボイルドを雇い……
 というのが、だいたいのところのあらすじだが、やっぱりこの小説のヤマ場はカジノシーン。『麻雀放浪記』なみのギャンブル小説として抜群におもしろい。