21世紀文学研究所

1サラリーマンの読書日記です。

寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』 第四章

 アレクサンドル・ブロークとアンドレイ・ベールイは、隣りあわせに住みながら書簡を交わしていたと言います。ですから僕が、架空のあなたに手紙を書く形でブログするのも、赦されていいことのように思います。なぜ架空のあなたに書くかと言えば、『デトロイト・メタル・シティ』のクラウザーさんのように、「俺には友達恋人いない、それは俺が殺したから」ではなく、依然として文学というものが会話には向かないものの、文体のマンネリ化を防ぐには有益にちがいない、と思うからです。(余談ですが、クラウザーさんの狂いきった身体のフォルムは、最近僕を癒してくれます)。やっと一万ページヴューを達成したことですし、マンネリ化を防ぐために、僕が飽きるまではおつきあいを願います。
 さて、最近、『書を捨てよ、町へ出よう』を読みました。帯には、「10代のうちに読んでおきたい」ということばが踊っていますが、30代に入ってやっとこの本を手にしたのです。不思議なことに、この本が出たころの10代と言えば、僕の父母の世代で、いまこの時10代を生きている人びとにとっては、親の世代の本ですらありません。だからかどうか、寺山修司の文体は今読むとすこし鼻につきます。ハイカラな舶来の作家のことばをことあるごとに引用することはもとより、冒頭から濫用される「親父たち」という言葉は一体なにものか、それがどうしてもわからなくなるからかも知れません。

マッチ擦るつかのま海に霧ともし身捨つるほどの祖国はありや(255ページ)

 けれどもこの本の第四章は明朗です。ほんとうは第二章の「二人の女」というエピソードも好きなのだけれど、今日はいかにも現代的な第四章を話題にすることにしましょう。寺山修司は平均化のおそろしさを語っています。時、1960年代にして、生涯賃金を計算することで変わり映えのない未来に希望が持てなくなることのおそろしさ、停滞のおそろしさを語り、さらには「自殺のすすめ」へと筆を進めるのです。入社の直後に生涯賃金をグラフ化して見せられた僕らの世代ではなくても、その遥か昔から、生涯賃金とはかくも恐ろしいものであるのです。ただ、寺山は「一点豪華主義」「一点破壊主義」によって、感性を生きながらえさせろ、と言いますが、どうにも三日に一度のビフテキぐらいでは感性は死なずにはいられなさそうです。これは欲望が弱いのかも知れませんし、ただ単に牛肉がやすくなったのかも知れませんが。
 ただ寺山修司の自殺論はうつくしいです。生活苦や大学受験の失敗、恋愛の失敗などで死ぬのはどっちかというと他殺であって、そんなやつに自殺をする権利はないのだ、と言います。だから、生涯賃金曲線をながめてぼうっとなってしまう僕などに死ぬ権利はないのです。湿っぽくなってきた(?)ので、「デトロイト・メタル・シティ」の映画公開をたのしみに、今日は寝ることにします。(松山ケンイチの身体のフォルムに癒されることは、決してなさそうですが)

わたしはじぶんの自殺についてかんがえるとき、じぶんをたにんから切りはなすことのむずかしさをかんじる。じぶん、というどくりつした存在がどこにもなくて、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。(316ページ)

(『書を捨てよ、町へ出よう』 角川文庫)